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瞑想とは?
瞑想とは何なのか、そして効果的な瞑想の方法を知ることは、とても大切なことだと思う。 なんとなく、瞑想するとよいと聞いて「今年こそは」と思っていたり、瞑想アプリなんかを使って瞑想しようとしている人たちがきっといると思う。 だけど始められない、もしくは続かないのは、瞑想の定義、そしてその本当の効果を知らないからかもしれない。 私たちの先生はよく、「人は、心からやりたいと思ったことしかやらない。やりたいとさえ思うことができたら、それを達成することは難しくない。人は行きたいという執念だけで、月にまで行ったでしょう?」という。 だから、瞑想のちゃんとした定義、その効能を知れば、もっと「瞑想をやりたい」と思えるんじゃないかな? 瞑想の定義に入る前に、まずは心をコントロールすることの大切さについて簡単に話したい。 心をコントロールするとは、心を不快な状態から心地よい状態に、制御されていない状態から制御されている状態に、不幸な状態から幸せな状態に変えることをいう。 自分の心をコントロールする力を持つことは、私たちの幸せにとってとても大切。 だって、それ以外のことはコントロールできないから。 周りの世界がある程度しかコントロールできないことは、私たちは自身の経験から知っていると思う。 なりたくなくても病気にはなっちゃうし、合わない人はいるし、電車に乗り遅れるし、雨は降るし、仕事はうまくいかないし・・・。 そんな中で心をコントロールできなければ、嫌なことがあったら嫌な気持ちになり、いいことがあったらいい気持ちになる、といったことを何度もひたすら繰り返すことになってしまう。 ゲシェラ師は、「私たちの心はまるで風船のよう。風に吹かれていったりきたり」と言っている。 それはとても疲れるし、とても不安なこと。 ・・・今日は何が起こるんだろう? そうならないためには、心をコントロールすることを学ぶ必要がある。 では、どうすれば心をコントロールできる? (風船の端っこを持っておくことができる?) それは、瞑想によってできる。 カダンパ仏教では、瞑想は「有徳な対象に集中する心」として定義されている。 瞑想とは心の行為。 そして有徳な対象とは、私たちの心を穏やかにするもの。 瞑想は、目を閉じてクッションに座って・・・というイメージがあるかもしれないけど、本当は、意識がある間はずっと瞑想している、ことが私たちが目指したいゴール。 そうすれば、私たちは何が起きてもずっと幸せでいられる。 心が穏やかなとき、私たちは幸せでいられるから。(心が不穏なときには絶対に幸せではいられないことを、私たちは経験から知っていると思う) つまり瞑想には「瞑想の対象(有徳な対象)」が必要で、瞑想する前に「何について瞑想するのか」を知ることが必要となってくる。 そして、その対象を実際に心の中に見つけることも必要となってくる。 たとえば、「人の幸せを喜ぶ心」についての瞑想。 この瞑想は、嫉妬心や不安な気持ち、自信喪失などの拮抗剤となる。 まずは、目を閉じて、その恩恵について熟考する。 (このブログの中では、「人の喜びを喜ぶことができたら、いろいろとうまくいっていないときでも変わらずに幸せを感じ続けることができるし、自分の喜びだけを喜んでいたときよりもずっと幸せパワーが広がる」といった例が書いてある) 自分の経験に当てはめて、その心を持った場合と持たなかった場合とで自分の幸せにどう影響するかを考えてみることができるといい。 たとえば、 などなど。 熟考した結果、そして自分の経験に当てはめてみた結果、人の幸せを喜ぶ方が自分の幸せにつながると思えたら、「よし、これからは人の幸せを喜ぶぞ」という決意を心に生じさせる。 これが、いわゆる「瞑想の対象」になる。 こうして対象が見つかったら(この場合は決意)、その対象に心が馴染むよう、一点集中的にその対象を心に保ち続ける。 気が散って忘れてしまったら、また熟考からやり直してもいい。 このようにして心を馴染ませることで、私たちは日常生活の中でもその決意を忘れずに、実践できるようになる。 つまり、誰かに幸運が舞い込んできたとき、「喜ぶって決めたんだった」ということを思い出し、その幸せを喜ぶことができる。 その結果、嫉妬や不安感に揺らぎそうだった心をコントロールすることができ、幸せな状態に保ち続ける(風船の端っこを持っておく)ことができる。 これが、瞑想によって心をコントロールする方法。 瞑想クラスに行くということは、風船の端っこをくっつけておく対象をたくさん学び、心の中に幸せの宝箱を作るようなもの。 そして瞑想し、そして日常生活でそれを実践するということは、風船をしっかり持っていられるよう、筋トレするようなもの。 初めは難しくても、子供がやがてボールを掴むことを覚えるように、少しずつできるようになる。 そして、できるようになればなるほど、私たちはどんどん幸せでいられるようになる。 瞑想には、私たちの「幸せになりたい」という夢を叶える、そんなポテンシャルがある。
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罪悪感をなくす
罪悪感は、とても罪深い感情だと思う。 私たちにすごいストレスをかけ、自分を嫌いにさせ、孤独にしてしまう。 罪悪感があると、幸せを感じることはとても難しい。 では、罪悪感は一体どこからくるんだろう? 私たちが「頑張ってない」ことから? 私たちが「ちゃんとできていない」ことから? だったらその解決策は、もっと頑張るということ? そうじゃないんじゃないかと思う。 罪悪感は、心の感情。 それは心の一部であって、私たちの外側ではなく、心の中にあるもの。 だったらその解決策も、きっと私たちの心の中にある。 ゲシェラ師は、『人間の問題を解決する方法』という本の中でこう言っている。 実際には、私たちの感情の問題のほとんどは、物事をあるがままに受け入れられないことにすぎない。その場合、解決方法は受け入れることであり、外部を変えようとすることではない。 なにかがこうであるときに、「そうじゃなかったらいいのに」と思うことは、とてもどうしようもなく、辛いことだと思う。 事実と理想との間のギャップは、心に葛藤を生み出し、それは罪悪感となる。 例えば、仕事で失敗してしまったとき。 感情で嫌なことを言ってしまったとき。 もっと頑張ればよかったのかもしれないけど、でもできなかった。 もっと我慢すればよかったのかもしれないけど、でもできなかった。 「こうであるべき自分」と「こうでない自分」との間のギャップはどうしようもなく、そしてとても苦しい。 だけどその解決方法は、「もっと頑張る」ことではなくて ただ、「受け入れる」ことだったりする。 私たちは、それぞれの許容力の中で精一杯やっていて、その中でたくさん失敗もするし、足りないこともある。 それはただの事実であって、それ以上でもそれ以下でもない。 それを受け入れるだけで、私たちは、ずっと楽になれる。 受け入れるということは、これ以上努力しない、という意味ではなく 良くなりたいと思うことも、決して悪いことじゃない。 でも、良くなりたいと思うときに、いまの事実を受け入れられなければ、それは誰かに道を聞いたときに、「ここからスタートしちゃダメですよ」って言われるようなもの。 そんなこと言われたって、いまここにいるんだから、ここからの道を教えてくれないと意味がないし、むしろ頑張れない。 いつかもっと良くなれたらいいなとは思うけど、私はいまここにいる。 それがどこであったとしても、私はここにいる。 「いまここにいちゃダメ」と思う必要はなくて「ここから、ここに行きたいから、こうやって行こう」と考え、そこに向かうだけでいい。 そして、その道のりは、楽しく勇気づけられるものがいい。 罪悪感はとても苦しい感情で、私たちに「もっと頑張らないと」と思わせてくる罪深い感情。 それを解決する方法は、もっと頑張ることではなくて私たちは、ただ受け入れるだけでいい。 あなたはきっともうとても頑張っていて、そのまま続けるだけでいい。 いまいる場所を受け入れながら、もっと良くなりたいと、自分はそんな良い心を持っていることを忘れないでほしい。 そして、罪悪感ではなくその良い心を道標に、いつか辿り着きたい場所に向かってほしい。
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過去を手放すこと①
過去を手放すことには勇気がいる。 懐かしい過去、ほろ苦い過去 自分を許せなく感じてしまうような過去。 私たちには、思い出したら温かい気持ちになる過去と 胸が痛くなる過去がある。 過去を手放すということは、過去を忘れるということじゃない。 ただ、この痛みを手放すということ。 もう苦しまなくていい 過去に縛られなくてもいい 幸せに未来を向いていいんだと思えるということ。
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Don’t worry, be happy
大したことじゃないと分かっていてもうっかり悩んでしまうことって時々あると思う 「来週のプレゼンの準備、どうしよう」 「あれやらなきゃいけないのにやってない・・・」 「もしかして嫌な気持ちにさせちゃったかなぁ」 「さっきのミーティング、もっと別のこと言えばよかったかも」 「この買い物失敗したかも・・?!」 気づかないうちにぐるぐると同じことを考えてしまってなんとなく心が重くなったり気が晴れない気持ちになってしまったり そんなときは『その悩みごとに対して、何かできることがあるかどうか?』を考えてみるといいと思う たとえば上の例だと 「プレゼンの準備、しないといけないから週末にやろう」(→できることがある) 「やらなきゃいけないけど、やりたくないからもうやめよう」(→できることがある) 「あの人が嫌な気持ちだったかなんて考えても分からない」(→できることがない) 「ミーティングもう終わっちゃった!」(→できることがない) 「失敗したけど次はレビューをちゃんと読んでみよう」(→いまできることはないけど、将来的にできることはある) できることがあるパターンはできることがあるので悩む必要なし できることがないパターンはそれ以上悩んでも仕方ないので悩む必要なし つまり・・・ 実は悩むほどでもない、意外に単純なことだということ できることがあるのならそれをやる できることがないのなら受けいれる 「そんな単純な問題じゃない・・!」と思うかもしれないけれどでもオプションとしては、結局上記の二つしかないんじゃないかと思う そのオプションに「悩む」「心配する」という感情を足すことは自分にとっても気持ちよくないしその物事を解決するためのプラスにもならない 逆に、悩んでしまったり心配してしまっていることで問題が大きくなっってしまったり(なってしまっているように見えたり)きちんと冷静に解決できなくなってしまうことの方が多いんじゃないかと思う 心配しなくてもいいということはとても解放的なこと 人生いろいろなことが起こるし悲しくても、何もできることがないときもある そんなとき、それ以上悩まないでそれ以上心配しないで「もうできることはないんだから」「やれることはやったんだから」と次に進むことができたら私たちはもっともっと楽になれると思う
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決めてしまうこと
世の中「決めてしまう」とすごくシンプルになるものだと思う 逆に、決めきれていないといろいろなことがややこしい 意思決定にとても時間がかかるし迷ったままの気持ちで長い間時間を過ごした結果その時間が無駄になってしまった気がすることもある なかなか決めきれないスローな会社の意思決定にやきもきしたり、なかなか決められない友達のことを残念な気持ちで眺めてしまった経験は誰にもあるんじゃないかと思う 決めてしまうと人生がとってもハッピーになることがいくつかある その一つは、「嫌な気持ちにならない」ということ 嫌な気持ちにずっとならないですんだら、なんて幸せだろうと思わない? それは、実は決められることだったりする 逆に、そう決めない限り嫌な気持ちになってしまう出来事は必ず起こるものだと思う 誰かに嫌なことを言われたり すれ違った車にクラクションを鳴らされたり 仕事が思ったように終わらなかったり・・・ だけど「嫌な気持ちにならない」と決めることでどんなことが起こっても、嫌な気持ちにならなくなることができる だって「気持ち」というものは、「心の状態」だから つまり、外で起こることじゃなくて私たちの心の中のこと いろいろなことが起こることで、勝手に嫌な気持ちになってしまって人生がコントロールできないような気持ちになることがあるけど そんな気持ちが続いているときにコントロールできていないのは私たちに起こっていることじゃなくて私たちの「心の状態」 つまり、実はコントロールできるもの だって、同じようなことが起こっても誰もが同じように嫌な気持ちになるわけじゃない 友達が何かについて憤慨していて「なんでそんなことが気になるんだろう?」と思ったり 友達の話を聞いていて「なんでそんなこと許せるんだろう?」と思ったりすることがあると思う どちらのタイプの方が人生幸せだろう? 「こんなこと許せない!」と思って仕返ししようと思う心を持つことと全然気にならなくてハッピーでいられる心を持つこととどっちの方が人生得だろう? 「全然気にならなくてハッピーでいられる心」は心のトレーニングで作ることができる そのトレーニングは「嫌な気持ちにならない」と決めること とにかく決めてしまうこと ちょっと嫌な気持ちになりかけたら「あ、嫌な気持ちにならないんだった!」と思い出して水に流す 仕事が忙しくてイライラしかけたら「あ、ハッピーな気持ちでいるんだった!」と、とにかく楽しい方向に気持ちを持っていく(鼻歌歌ったり) 「トレーニング」なので、最初からうまくできなくても構わない だけど、やっているうちにだんだん心の筋肉がついてきてちょっとずつできるようになる たとえば私たちに5年間の時間があったとして「自分に起こること」をコントロールしようとして時間を過ごした場合と「嫌な気持ちにならない」と決めて頑張ってみた場合と5年後の私たちの幸せ度は、後者の方が確実に高いと思う そしてこのトレーニングは(どんな心のトレーニングもだけど)あんまり真剣にならないでゲームのような感覚でやってみることがおすすめ 嫌な気持ちになりかけたときの一番のおすすめはとりあえず笑ってしまうこと 大事なカップを割ってしまったら、落ち込まないで笑ってしまう部下が失敗したら、真剣に怒らないで笑ってあげる ポイントは、「何が起こっているか」じゃなくてとにかく「嫌な気持ちにならない」こと ぜひ試してみてほしい
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問題をなくす方法
人生をある程度生きていると「問題が全くない」瞬間がくることなんて不可能なような気がするときがある 仕事の問題が解決したら、人間関係で問題が発生したり 恋愛関係がうまくいったら、健康に問題が起きたり 一日生活するだけでもたくさんの問題に行き当たる気がするときがある 「コンビニの列にたくさん人が並んでいる」 「電車が遅れている」 「なんでこの人はこの会議中にこんなことを言うんだろう?」 「あの人からのさっきのメール、怒っている感じだったかも」
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人の幸せを喜ぶこと
Rejoice、という言葉がある 意味は、「うれしがる、喜ぶ」ということ 特に、「人の幸運や幸せを喜ぶ」ということ 今年の抱負は、できる限り周りの人たちの幸せを考えてその幸せを喜ぶ、ということを得意になりたいと思う 誰かが幸せであるとき満たされているとき嫉妬や不安ではなくてその人の幸せを心から喜ぶことでたくさんの喜びを感じられるようになりたい 自分が大切にしているもので、誰かの幸せに貢献できるものがあったとしたらそれをあげることでその人が幸せになることを喜べるようになりたい たとえば気に入っていたテントをホームレスの人にあげることだったり少しだけ残っていたお水を誰かにあげることだったり そして感謝されることに喜びを感じるのではなくてその人が暖かいこと、潤っていることをただ単に心から喜ぶことで幸せを感じられるようになりたい たとえば大好きな友達がたくさんの友達に囲まれて自分と逢う時間が少なくなったとしたら寂しいと感じるんじゃなくて彼女のその幸せを、心から喜ぶ 誰かが仕事でとても活躍していたら不安や焦りを感じるんじゃなくてそのことを、その人のために心から喜ぶ 誰かがFacebookに楽しそうな写真を載せていたら「いいな、私もしたいな」と思うんじゃなくて楽しそうに幸せそうにしているみんなのその喜びを、心から喜ぶ そうしていたら、自然に周りに優しくなれるような気がするし喜びや幸せを感じられる機会が自分の喜びや幸せのみに依存していたときよりもずっと増えると思う 自分の幸せばかりを考える人生には終わりがないと思うしいつも全てがうまく回ることはとても難しいからきっと疲れてしまうと思う 人の喜びを喜ぶことができたらいろいろとうまくいっていないときでも変わらずに幸せを感じ続けることができるし自分の喜びだけを喜んでいたときよりもずっと幸せパワーが広がるんじゃないかと思う
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母の優しさ
2021年は、なんだか2020年よりもあっという間だった気がする 仕事が忙しくなって、旅をしない日々にも慣れてだけど、最後の最後に日本を訪れることができて本当によかった 久しぶりにみんなに逢えたことで怖がらずに人を愛するということがどんなだったか愛されていると信じることがどんなだったかを思い出せた気がする もう一つ両親と長い時間を過ごせたこともとてもありがたかった 私はずっと、母との仲がとても悪くて数日間一緒に時間を過ごすと、必ず喧嘩していた だけど、母が引退して、病院を引き払ったときに私が小さい頃ずっと大事にしていたくまのぬいぐるみの「くまたくん」をずっと病院に飾っておいていてくれたことを知った
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迷ったら、いつも「優しい方」を選ぶ自分でいたい
いつも、できる限り、人や周りに優しくあることを選びたいと思う 素敵なものを手にして自分のものにするか誰かにあげるか迷ったら誰かにあげることを選びたい 自分に意地悪な人が、寒そうにしていたらジャケットを貸してあげることを選びたい 階段で重そうな荷物を運んでいる人がいたら周りの誰も気にしていなくても手を差し伸べることを選びたい その結果相手に感謝されなくても意地悪なことを言われても助けを断られてもその結果を後悔しないでいたい
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怒らなくなること
怒ることは避けられないことだと思う人たちがいる 口うるさい上司だったり、ダメな政治家 割り込んでくる車や 急にキャンセルされた約束 世の中の不合理 私たちの権利を取り戻すには 怒ることが必須だと思う人たちもいる